「祭り」ではしゃぎたいやつは現実世界の負け組だと思った話

「祭り」とは「非日常」を楽しむ場所

https://kotobank.jp/word/%E5%96%A7%E5%98%A9%E7%A5%AD-491575

 筆者の身近に音楽フェスや地元の祭りなどの「祭り」が大好きな人がいる。

 筆者は「祭り」が大嫌いなので、なんで「祭り」が好きなのか不思議に思った。

 その人が言うには、どうやら「祭り」は「非日常」が味わえることが魅力らしい。

 どうして「非日常」が魅力なのか、話を全て聞くまでわからなかった。

「日常」に不満があればあるほど「非日常」は楽しくなる

 「なぜ祭りの非日常性が好きなのか」と言うことについて聞いてみると、どうやら、「日常」があまりにしんどいから、そのしんどさが一切ない「非日常」の世界に魅力を感じるらしい。

 なるほど。

 確かに、「祭り」の世界には、仕事のタスクや将来設計、人間関係など、「日常」で心配するようなことは存在しない。

 あるのは一時の解放的な雰囲気のみ。

 しかも、「日常」の成果は「非日常」に持っていくことはないので、どれだけ「日常」で失敗していても「非日常」では関係なく振る舞える。これを許すために、「祭り」には無礼講など、「人間関係における垂直型無礼」(上司にタメ口を聞くなど)が許されていたりする。

 確かに、話を聞いていると「日常」で失敗して、しんどい思いをしている人ほど、「祭り」が作ってくれる「非日常」が魅力的に見えるのがわかった。

「非日常」で暴れさせることで「日常」への抵抗力を削ぐ

 「非日常」で好きなだけ、はしゃぎ、騒ぎ、暴れることで、「日常」で溜めた恨みを発散する。

 確かに、これは現状のまま「日常」を生きていく上では効果があると思う。きっと「祭り」で暴れた次の日とはすっきりと、クソみたいな「日常」に帰っていける。

 これを定期的に繰り返せば、「日常」での敗者は敗者で居続けてくれる。

 「パンとサーカス」とはこのことか。

 パンとサーカス(羅: panem et circenses)は、詩人ユウェナリス(西暦60年 – 130年)が古代ローマ社会の世相を批判して詩篇中で使用した表現。権力者から無償で与えられる「パン(=食糧)」と「サーカス(=娯楽)」によってローマ市民が満足して政治的無関心になっていることを指摘した。

「非日常」を遠巻きに見て微笑むくらいが「日常」に勝利している証

 「日常」になんの不満もなく、毎日楽しく生きている者にとって、「祭り」が作る「非日常」はなんの魅力もないもの。むしろ「日常の敗者」から、その恨みをぶつけられる可能性すらある「危険な時空」とも言える。

 「いつもは散々いじめてくれたな!今日は無礼講だぜ!今この時ばかりは復習してやる。。」

 こんなことになるかもしれない。

 そんな場所に「日常の勝者」が魅力を感じるわけがない。まぁ「日常の敗者」をさらに酷使する予定があるなら、「余興」としてはアリな場合もあるかもしれないが。なんにせよ、その場自体に魅力を感じるわけはない。

 自分は「非日常」という不利なカオスに置かず、それを遠巻きに眺めて、「明日からもよろしく!」なんて余裕を持って微笑む態度ができることが「日常の勝者」ではないか、と思った。

仙人みならい

1990年生まれ。嫌なことするくらいなら欲しがらないスタイル。いちおうrailsエンジニア。ゲーム好き夫で本好き夫。ギターも少し弾ける。格闘技はムエタイと柔術が少しできる。

仙人みならいをフォローする
家日記
在宅通信

コメント