ドストエフスキー『罪と罰』:初見感想メモ

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フョードル・ドストエフスキー - Wikipedia

ドストエフスキー『罪と罰』:初見感想メモ

「社会貢献」は個人の犠牲より優先される

 ラスコリニコフの論は極端だが、「大義のためなら個人を消費してよい」という発想自体は、実際、現代のどの国家にも程度の差で組み込まれている。戦争、経済成長、公共の安全など、名目が変わるだけで構造は似ている。

 民主主義国家が相対的にマシなのは、この論理を原則として否定し続ける建前を持っている点だが、問題は非常時や同調圧力の中で、その建前が静かに外されること。

まんがで読破『罪と罰』より

「大義のためなら個人を消費してよい」という発想を個人が取り込むと罪悪感で壊れる

 国家や社会という「抽象概念」は、大義のためにいくら個人を消費しようが罪悪感を抱くことはない。しかし、個人は別。有名な「トロッコ問題」は社会に解決させれば簡単にケリが付くが、個人が判断しようとするから迷って結論が出せない。

まんがで読破『罪と罰』より

大義が個人に罪悪感を負わせない方法

まんがで読破『罪と罰』より

 実際、多くの人は心の奥にラスコリニコフ的な発想である「状況次第では他者を犠牲にしてもいい」という考えを持っていると思う。しかし、実際それをやったラスコリニコフがそうだったように、通常は罪悪感がそうすることを止めてくれるブレーキになることを我々は知っている。

 問題なのは、例えば「愛国」、「非常時」、「正義」といった物語が入ると、そのブレーキが外れること。やったことの動機が「私がやりたくてやった」から「社会や状況が求めたから」にすり替わる。結果、相手を消費する行為を罪悪感なしでできるようになるのが人間なんだろう。

 そんでもってこういうことは、「職場」、「家族」、「コミュニティ」など、誰もが所属する小さな集団でも起こりうる。自分とは別の「抽象的なモノ」が要請すれば自分が罪悪感を引き受けずに済むようになるからだ。

 だから重要なのは「罪悪感を感じる個人としてその行為を考えること」な気がする。

感想:行為は『デスノート』っぽいけど大事なのはそこじゃない

 『デスノート』が流行ったときに、誰かに教わってドストエフスキーの『罪と罰』の存在も知ったが、作品を読むまではしなかった。なんだか退屈そうだったので。。

 しかし、改めて読んでみると、やっている行為や動機については似てる部分もあるが、作品のメッセージとしてはだいぶ違う感じがした。

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