Fラン大学就職チャンネル『メタバコ』:感想メモ
Fラン大学就職チャンネル の『メタバコ』を全部観た。
7~8時間くらいある長編コンテンツだったが、内容はかなり濃く、終始メッセージが詰め込まれていた。
『メタバコ』全編を通して、筆者が特に強く「モヤモヤ」したのは次の4点だった。
- 見下して安心することは、人間の本質なのか?
- 社会に存在する劣等・優等を、そのまま放置し「自己責任」で片付けていいのか?
- きれいごとは、やった本人を気持ちよくしない。それでもモヤモヤするコストを個人が払う必要はあるのか?
- 社会が強いる競争を無条件に肯定するのも違うし、完全に背を向けるのも違うとしたら、競争とどう向き合えばいいのか?
そして、これらの「モヤモヤ」を通して、最終的に浮かび上がってきた問いは
「俺は、どこまで他者に冷酷になっていいのか?」
というものだった。
以下、この視点から改めて4つのモヤモヤを整理してみる。
見下して安心することは人間の本質なのか?

Fラン大学就職チャンネル『メタバコ』より
これは本質なんじゃないかと思う。
人間は多分、相対的にしか物事を判断できない。
「自分が今どういう状態か」という認識ですら、「あの人よりはマシだけど、この人よりはイケてない」みたいな比較で測っている気がする。
そんでもって、そうやって相対的に自分を計る態度が、相手に伝わるほど露骨になったとき、「見下した」、「見下された」という関係性が生まれるんだろう。
劣等・優等を放置して自己責任で済ませていいのか?

Fラン大学就職チャンネル『メタバコ』より
人間が相対的にしか物事を測れない生き物だとする一方で、それを現実化する装置が社会の中に存在しているのも事実だ。
そして、リソースが有限な世界にある人間社会では、常にリソース獲得競争が起きている。
それは有史以来ずっと続いていて、人間は生まれ落ちた瞬間から、その競争に「途中参加」するようにできている。
この構造の中で、「客観的に公平な競争」なんて、実は存在するようで存在しない。
一斉にスタートするわけじゃない競争な上に、そこに参加する個人の能力ややる気といった競争に必要なリソースも最初から同じじゃない。さらには、そもそも競争に参加しない自由も、ほとんどない。
そういう競争の結果として、敗北が積み重なれば劣等になり、勝利によってリソースが積み上がれば次の競争でさらに有利になる。そしてさらにその競争は続いていく。。

Fラン大学就職チャンネル『メタバコ』より
確かに、競争のワンシーンだけを切り取れば「負けたのは自己責任だ」と言うのは簡単だ。
でも、その人間が生まれてから敗北を積み上げるまでの過程を丁寧に見たとき、本当に「自己責任だ」と言い切れるケースなんて、果たしてあるんだろうか。
多分、ほとんどない。
むしろ「公平」を目指す方が不自然にすら思えるほどに歴然と「不公平」だけがある。
それでも、「世の中そういうモノだから」と蔑むだけというのも、諦めるだけというのもしっくりこない。
競争の開始時点から敗色濃厚な人を見たときに湧く「やるせなさ」や「ほっとけなさ」までを、「自己責任」という言葉で閉じ込めて捨ててしまうのは、どこか後ろめたいのである。
「キレーゴト」は個人が払うべきコストなのか?

Fラン大学就職チャンネル『メタバコ』より
他人を見下して安心する人間の本質も、終わりなき競争を強いる社会構造も、変えられない。
少なくとも一個人にできることじゃない。もはや競争は自然現象に近い気さえする。
そういうモノに、善意だけで個人が立ち向かえば、手痛いコストを払うことになる。
だから、個人が必ずやらなきゃいけないモノじゃないと思う。

Fラン大学就職チャンネル『メタバコ』より
それでも、そういうものを放置したくない人が、「自己満足」の範囲でやるのが「キレーゴト」なんだと思う。
しかし、「問題」はそういう個人の「キレーゴト」で片付くほど単純じゃない。
ただ、それでも、それを「なんだか尊い」と思ってしまう自分がいることを、この作品を見て確認した。
競争とどう向き合えばいいのか?

Fラン大学就職チャンネル『メタバコ』より
社会が強いる競争を「そういうモノだ」と無条件に肯定するのも違うし、かといって完全に背を向けるのも違う気がする。
ここで競争についてもう少し丁寧に考えていくと、「そもそも競争は、競争そのもののために存在しているわけじゃないのではないか?」ということに思い当たる。
つまり、スポーツ競技のような視点で生存競争を捉えると、理解が歪むのである。
そもそも競争は突き詰めれば、人間が生き延びるために必要なもので、「無限の欲望を拡張するため」にあるわけじゃない。
そう考えると、競争に対して少し冷静になれる。
今、自分が苦しみながら参加している競争は、本当に生き延びるためのものなのか。それとも、別の欲望を満たすための競争なのか。
前者であれば、必ずしも相手を打ち負かしたり、見捨てたり、追い詰めたりしなくてもいいはずだ。また、完全に背を向けて引きこもるのも、生物としてどこか違う気がする。
後者は刺激的で楽しい。でも、ほどほどでいいんじゃないかと思う。
この考え方が正解かどうかは分からない。
ただ、こうやって競争を俯瞰して考えてみることが、「キレーゴト」をやるモチベーションを生むきっかけになりそうな気がした。

コメント