『ペルソナ5』感想メモ〜「メメントス」クリアまで〜

プレイ状況

 難易度は「Normal」でクリア済み。

混乱からの全滅で2回ほど最初からやり直した

 セーフルーム到達前に、ピンチエンカウントからの混乱=>総崩れのパターンで2回も最初からやり直した。

 このパターンにハマると何もできずにゲームオーバーになるので、イラついた。

 混乱耐性か速度が上がるアクセサリーで対応しようと思ったが、面倒臭くて「貼る大気功」をつけっぱなしにしてしまったので、混乱させられないように勝つという運ゲーをやってきた。

 最終ダンジョン到達時点ではほぼ全てのスキルが、最上位になっているのでSP消費が大きく、かつ、初見ではどこまでダンジョンが続くかわからないので「貼る大気功」は外せないと思っていた。

 しかし、セーフルームを見つけてからはSPが切れたら双子に回復してもらえるので、そこからは「貼る大気功」はいらなくなることに気づいた。

大衆は「小さな物語」の中で楽しく生きてる

 大学時代に講義で解説を聞いた、ジャン=フランソワ・リオタールの『ポスト・モダンの条件: 知・社会・言語ゲーム』の中で、「より良い社会を作るために、一人一人が勉強して考えて成長しようぜ!」という啓蒙主義の「大きな物語」が終わり、人々はそれとは関係ない「小さな物語」の中で生きていく、という話を思い出した。

 『ペルソナ5』の最大の敵として現れる「大衆」は、社会のために自分で考え、決めて、行動する、ということをしない。

 それには苦痛が伴うわりに、効果が薄いからだ。個人の努力で何かが劇的に変わるほど、社会は小さくない。

 そんな「大衆」の社会に対する無関心と放任、無責任な賞賛の結果、いろんな悪党が生まれた。

 「大衆」はその悪党に苦しめられつつも、「小さな物語」にこもる自由に満足していたので、社会に文句を言うことはなかった。

 啓蒙主義に立脚した「大きな物語」についていくのはしんどいし、個人の力では、仮に苦痛を感じながら自分で学び、考え、決断し、行動することをやっても社会から自分の不満を取り除くほどの効果はない。

 「頑張っても意味ないんだから、社会について学ぶよりも、自分が好きなエンタメについて学ぶ方がたのしいや!」

 こうやって、「大衆」は「大きな物語」に背を向けて「小さな物語」に籠っていく。

 結果、社会のことは「できるやつ、やっといて!」のスタンスで生きるようになる。

 このスタンスが極限までいくと、「自分さえ良ければそれでよし!」になるんだろう。

「大衆」は「小さな物語」の土台にある「大きな物語」の危機に立ち向かう必要があった

 それぞれの「小さな物語」で楽しく暮らす「大衆」は、世界の消滅という「大きな物語」の危機に立ち向かわなきゃいけなかった。

 「小さな物語」は「大きな物語」でできた社会を土台にしている。

 エンタメが生産されるのは、社会が安定しているから。ネットが繋がるのも、道路を安全に歩けるのもそう。

 どこかで誰かが社会に貢献しようとしてくれたから、社会が安定して、快適になる。

 「小さな物語」を楽しめるのは、「大きな物語」のおかげで安定して発展している社会があるからこそ。

 しかし、その「大きな物語」が危機に晒された時、本当は社会を守るために「大衆」は立ち上がらなければならなかった。

 が、『ペルソナ5』の「大衆」はそうしなかった。

 実際のところどうだろう。自分は立ち上がれるだろうか?

「三島」にグッときた

 主人公を取り巻く協力者はみんな、「職能のある特殊な能力者」だが、「三島」だけはただのいじめられっ子の高校生。

 なので、主人公を助けるための協力もしょぼい。

 実際に、署名が集まっている描写はないので、主人公の助けになったかはわからない。

 でも、自分が助けたい他者のために、自分にできることを精一杯やることが尊いのだと思う。

 「やっても無駄、俺はにはできない」と腐るのは簡単なこと。

 「無駄かもしれないけど、自分ができることをやれば、ほんの少し何かが変わるかもしれない。かける労力に対してその効果はしょぼいかもしれないけど、そんなのかんけぇねぇ!」と立ち上がることが尊い。

 自分が助けたい人のためにかける労力なんて、タダみたいなもの。いくらだってエネルギーを注げる。

 こういう信頼関係が本当に尊い。

川上先生一筋だった

 しっかりイベントを作り込んであって素晴らしかった。

 付き合いたてのこの感じ、妻と付き合い始めた時のことを思い出した。

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