祖母の茶道具の一部を貰い受けた
どっさりと茶道具を持っていた祖母が死んでから随分経つ。
茶道具は茶道にまるで興味のない転売ヤーの母が引き継ぎ、その多くはネットで販売された。
しかし、そもそも茶道具にそれほどの需要はないし、祖母の茶道具はたくさんあるしで、まだ家には茶道具が残っている。そしてこの度の帰省で、筆者がそのほんの一部を持ち帰った。
最近『へうげもの』を読んでいて、お茶に少しだけ興味があったので、リアル茶道具には「何か特別なもの」を期待していた。別になかったけど。
茶碗で茶を飲むと「茶を飲むこと」に集中してる気がした
いつもは適当なマグカップやグラスに茶を入れて飲んでいた。
この時は茶を飲む行為になにも感じていなかった。別に特別な味がする茶を飲んでたわけでもないので、雑に飲み干していた。
一方で、この度手に入れた茶碗を出して茶筅でかき混ぜて茶を飲むと、気合が入って「茶を飲むこと」に集中して飲んでいたことに気づいた。
茶自体は変わってないのに、「この茶はこんな味がしてたのか」とか「熱い時と緩くなった時の味が結構違うな」など、茶の味について新しい発見があった。
茶を飲むことに集中して、他の余計なものに意識がいかないようにすると、その物の姿がよく見えてくる。
『へうげもの』で利休が無駄を省くことに努めた理由はこれなのか、と想像した。
無駄なものを省いて一点に集中することの良さが少しわかった
振り返ってみると、筆者はいろんな物事を「ながら」でやっている。
料理、洗濯、掃除などの家事をし「ながら」、ラジオを聞いたり、目の前のこととは別のことを考えたりしている。
食事だってそうだ。食べながら喋ったり、別のことを考えたり、動画を見ながらだったりする。
日常生活のあらゆる場面で、「心ここに在らず」が当たり前だった。
これじゃ勿体無い。
別に急いでるわけじゃないし、「心ここに在らず」では目の前の作業を楽しむことができない。
まぁそもそも楽しい作業ばかりじゃないけど、もしかしたら、やっている作業に「感じ入ること」ができれば、印象も変わるんじゃないか、と思った。
面白そうなんで、今後は目の前のことに集中してやってみるようにしよう。
しかし、この茶碗は軽くて良い。どこ製のものなんだろうか。
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