金田治『老子』講談社学術文庫
第1章「道の道とすべきは、常の道に非ず。」
逐語訳
「道の道とすべきは、常の道に非ず。名の名とすべきは、常の名に非ず。無名は天地の始め、有名は万物の母。故に、常に無欲をもってその妙を観、常に有欲をもってその徴を観る。此の両者、同じく出ずれども、名を異にす。共に玄と謂う。玄の又た玄、衆妙の門なり。」
現代語訳
「道は、もし道と呼ばれるならば、それは一定不変の道ではない。名前もまた、もし名前と呼ばれるならば、それは永遠の名前ではない。無(名前がない状態)は、天と地の始まりを表し、有(名前のある状態)は、万物の母である。したがって、常に無を見つめることでその神秘を知り、常に有を見つめることでその限界を知ることができる。この両者は同じものであり、ただ呼び方が違うだけだ。この同じものを『玄(奥深いもの)』と呼ぶ。さらに奥深いものは、あらゆる素晴らしさの入り口となる。」
道の道とすべきは、常の道に非ず。名の名とすべきは、常の名に非ず。
道は、もし道と呼ばれるならば、それは一定不変の道ではない。名前もまた、もし名前と呼ばれるならば、それは一定不変の名前ではない。
老子の「道」とは何か?
老子のいう「常の道」とは、単なる人間世界の約束ごとではなくて、宇宙自然をもあわせ貫く唯一絶対の根源的な道であって、それは「名」によって表すことはできない窮極の原理であった。
老子の言う「道」が示す範囲は広い。世界のすべてのようなもの。
「儒家と法家」の「道」の批判
人間世界の約束ごととしての「道」は「儒家と法家」によって以下のように説かれている。
儒家の「道」
儒家では、道徳的な価値観や人間関係の秩序を重視していた。具体的には、孔子や孟子によって次のような要素が含まれている。
- 礼:儀礼や礼儀作法。社会秩序を維持し、人々が互いに尊重し合うための行動基準。
- 仁:他者への思いやりや慈しみ。人間同士の関係を良くするための徳。
- 孝:親孝行。家族や親族を大切にすることで社会全体の調和を目指す。
儒家の「道」とは、礼や仁などの道徳的な行為を通じて社会全体の調和と繁栄を目指すものであり、具体的な規範として示された。
法家の「道」
法家は、法律や厳しい規律を通じて国家を統治する方法論を重視していた。代表的な思想家としては韓非がいるが、彼の考えた「道」は以下の要素を含んでいた。
- 法:厳格な法律で人々を統治し、秩序を維持する。
- 術:統治者が臣下を管理するための技術や策略。
- 勢:統治者の権力を保ち、威信を持って人々を支配する。
法家の「道」は、強力な統治を目指すための具体的な法や技術、権威の体系であり、人々を規律で縛ることで社会の安定を保とうとするものだった。
老子の批判
老子の言う「道」が示す範囲は広い。世界のすべてのようなもの。それに比べたら「人間の動き方のみ」を説いたコレらの教えなど全然小さい。世の統治者を中心とした非常に狭い範囲の、しかも人間だけの動きの話。
しかし、当然世界は人間だけのシステムで成り立っているわけではない。むしろ、それ以外のシステムの方が強力で、その脅威の前には人間世界のシステムなんて無力である。コレは現代だってそう。海面が上昇したり、でかい地震が起きたりすればコレまでの人間社会なんてたちどころに崩壊する。
そういう小さいモノを「道」として語ることを老子は批判している。むしろ、世界システムの大きさと人間の小ささを認識すればこそ、それを無視することの愚かさ、それに抗うことの無意味さがわかるようになる。これが「無為自然」の姿勢につながる。
老子の「名」とは何か?
「名」とは、名称、言語、概念の意味。
それは必ずある実態に対してつけられていて、一つの約束事として世界に通用することになるが、物の名称は本来どのようにもつけられるわけであるから、「名」は実に対して第二義的な物である。
名称、言語、概念としての「名」
「名」とは、物事に名前を付ける行為や、そのものを指し示す言葉、概念を指している。
実態に対してつけられるもの
「名」は、ある実際の物事に対して付けられる。例えば、「木」という名前は、実際の木という植物に対して付けられている。
約束事としての「名」
「名」は、そのものを示すための共通の約束事として使われる。つまり、名前を使うことで、他者と情報を共有することができる。
「名」は本来どのようにも付けられる
しかし、「名」は必ずしも一つに決まっているわけではなく、物事の名前はさまざまなものが付けられる。本質的に、名称は人間が任意に決めているにすぎない。
「名」は第二義的なもの
そのため、名前や概念は実際のものに対して二次的な存在であり、名前そのものに実体があるわけではない。名前は、その物事の本質を完全に表現しているとは限らず、あくまでも指し示す手段に過ぎない。
まとめると、「名」は物事に付けられた名称や言語、概念のことであり、それは実際の物事に基づいているものの、必ずしもその本質を正確に表現しているわけではなく、二次的なものだということ。
「儒家と法家」の「名」の批判
儒家に対する批判
儒家は「礼」や「仁」といった道徳的な概念を重視し、人間関係の秩序を確立するために規範としての「名」を用いた。
たとえば「礼儀」や「孝行」など、社会を安定させるためにさまざまな徳目を奨励した。老子は、これらの概念が人々を自然な状態から遠ざけ、社会的な道徳に縛り付けていると考えた。彼は、道徳的な名称や概念を押し付けることで、自然な「道」から人々を引き離し、本来の自然な在り方を妨げていると批判した。
法家に対する批判
法家は、厳格な法律や罰則によって秩序を維持しようとした。彼らは「法」と呼ばれるルールに従わせることで、人々の行動を管理し、権力を維持しようとした。
老子は、法や規制を人間社会に押し付けることで、かえって人々の本来の自由や自然な行動を制限し、自然な「道」から離れてしまうと考えた。法による統制は、名による規範に縛られたものであり、社会に不自然な緊張をもたらすと批判した。
まとめ
老子は、そもそも「絶対的」とは言い難い、むしろ記号に過ぎないし、解釈も安定しない「名」を、絶体的な規範として重視する儒家や法家を批判した。
儒家も法家もそれぞれの道徳的・法律的な「名」によって人々を制限し、老子の言う「道」から離れさせているとした。彼は、「名」を重視するあまり本質を見失うことない生き方を重視すべきと説いた。
「名」がつく事物、また、その「名そのモノ」なんてのは、その事物の本質ではない。なんとなく、今のところはその事物を指し示すのに使えているだけに過ぎないモノなのである。それなのに、「名」こそが従うべき「道」の形だと信じて疑わないこと、老子のいう「道」を無視した、小さい世界での本質的でない生き方になる。
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