人間は指先一つ動かすのも「意識」ではうまく出来ない。キーボードを叩くこの操作だって、手首を少し持ち上げて、人差し指の各関節を曲げて、狙ったキーを指先で押せるように角度を調整して、人差し指の各関節と筋肉で指先をキーに向けて伸ばす。そして一瞬だけキーに触れて、また元の位置に戻す。これでもだいぶざっくりな説明で、実際に起きていることは果てしなく複雑である。人差し指でキーを押すだけなのに。しかし、我々人間はこれを無意識下でスムーズに行なっている。特に何の苦労もなく。
当たり前だが、これはキーボードを打つ動作だけじゃない。身体を使ったあらゆる動作は「意識」より「無意識」の方が断然上手にできる。筆者はキックボクシングやギターをやるが、どちらにおいても、動作をする際に上記のように「意識」で考えていたのでは何にも出来ない。身体中をボコボコにされるし、音もずれまくるだろう。だから、キックボクシングやギターの上達は、最終的に「無意識」でその技の動きができるようになるまで繰り返すことが求められる。どれだけの技をその人の「無意識」が習得しているか、が上手さの指標なんだと思う。
ここまでは人間の身体の動作全般においてよく言われていることだと思う。実際、筆者もよく耳にしていた。筆者があえてこのことを記事にまとめたいと思ったのは、「この事実」を脳にも適用できると思ったからである。
よく「アイディアが降りてきた」なんてワードを目にする。散々悩んでいたが答えは出ず、別のことをしている時にその悩みの答えが出てきたりするアレである。筆者はこの現象を「脳という身体のパーツを無意識に預けたことによって起きたこと」だと解釈している。つまるところ、脳も身体における一つのパーツに過ぎない。脳は思考も司っているが、「意識的」と思えるその思考すらも、実のところ、先に挙げた「指先の動作」とあまり変わらないのだと考えている。なので、「無意識」の方が「意識」よりも上手に思考できるのである。「降りてきたアイディア」は大体正しいし(そのまま使えるかどうかは別にして)、「悩み抜いたアイディア」は大体思い込みなどの不純物が混ざっていて正しいとは言えない場合が多い。なので、「意識」で考えたことはあんまり信用しなくていいと筆者は考えている。
では、全てを「無意識」に預ければいいのか、というとそれは全然違う。「意識」にもちゃんと役割がある。「無意識」は脳を含めた身体を上手に動かすことはできるが、「動作の方向性」を決めることはできない。つまり、「無意識」だけでは「どこに行くのか、何をするのか、どうするのか」ということを決められない。さらに「無意識」は身体のリソースを把握し、コントロールすることはできない。「残りのスタミナはどれくらいで、目標地点はまだ先だからペースはゆっくりめでやる」なんてことは「無意識」ではできない。できるのは「ペースはゆっくりめでやる」の部分で、その他は「意識」がコントロールする。
脳を含めた身体の全てを十分に活用するには、「意識」と「無意識」の役割分担を意識的に行うことが肝なんだと思った。
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