核家族は「人員ギリギリの職場」と同じ過酷さがあると思った話

核家族は人員ギリギリで回している職場のようなもの

核家族とは社会における家族の形態の一つ。拡大家族、大家族、複合家族と対になる表現である。 米国の人類学者であるジョージ・マードックが人類に普遍的ですべての家族の基礎的な単位という意味で用い始めた”nuclear family”という用語の和訳であり、夫婦や親子だけで構成される家族のことである。

出典:

核家族 - Wikipedia

 核家族とは、「家族の最小単位」みたいなものである。それはさながら、「人員がギリギリの職場」のようなものである。

 「そう言う職場で働くのは大変である」と言うことはすぐに想像できても、「夫婦+子供の家族」で暮らすのが大変であることはなかなか想像できない。筆者をはじめ、大家族出身者だと、核家族は経験したことがない家族形態なのでイメージするのは難しいだろう。

 核家族は人員ギリギリの職場と同じ、無駄(というか余裕)のない組織なので、家族の一人一人がたくさんの働きをしないといけない。

 人員は減っても、家族が必要とする機能は変わらないのだから。

核家族の一人一人にはマルチスキルが求められる

 家族が必要とする機能はたくさんある。

 「金を稼いでくる力」、「家事をこなす力」といった具体的な力の他に、「家族の悩みを聞いてあげる力」、「家庭内を良い雰囲気にする力」など目に見えない情緒的な機能もある。

 大家族であれば、一人で多くの力を持っていなくても、「それができる人がやれば良い」というスタイルで、自分の得意なことをやって家族に貢献することができた。

 「お父さんは全然家族の話を聞いてくれないど、きちんと金は稼いでくれるから良しとして、そう言う話はおばあちゃんにするからいいか。」とお母さんは許してくれるかもしれない。

 しかし、核家族は最少人数なので、一人が多くの力を発揮しなければ、快適でない家庭になってしまう。そう言う家庭では常にストレスが溜まっていき、早晩に家族の誰か、またはみんなが不満を爆発させておかしくなる。

 とはいえ、人には得意なこと、不得意なこと、できること、できないことがある。

 得意なことは積極的にやれるし、できることは努力や工夫でそのクオリティを上げられる。一方で不得意なことはやりたくないし、できないことは努力してもできない。それが人間である。

 しかし、最小人員で回している核家族では、個人の特性なんて考慮しない。不得意なこともイヤイヤでもやらなきゃいけないし、できないことはなんとかしてできるようにならなきゃいけない。無茶だけどしょうがない。。

核家族の運営は大変だが大家族にもストレスはある

 核家族の運営は、それが問題なくできる個々人が集まれば快適にできるだろう。

 が、そうでない者にとっては「心の拠り所になる安定した家庭」を作ることはできない。むしろ、家庭が「できないし、やりたくないタスクに塗れた不愉快な場所」になる。

 こう考えると、「家に帰りたくないからレンタカーの中で寝るお父さん」のやってることがまともに見えてくる。

 じゃ大家族で生活すれば良いじゃん!と思うが、これにもストレスがある。

 配慮すべき人が増えるので、自分の自由に振る舞うことはできないし、人間が増えれば関係性のトラブルは大なり小なり頻繁に発生する。

 まぁ商業主義的な理由もあれど、こういう不自由さが嫌で人は積極的に核家族を作ってきた感はある。

理想は核家族の集合体コミュニティで生きていくこと

 「核家族の運営はしんどいけど、大家族には戻れない。。」

 筆者もそんな思いがある。

 現時点での筆者の解決のアプローチとしては、「同じ志を持った核家族同士で集まって、良い感じに生活する」と言う事だが、どうやって実現したら良いかはまだ目処がついていない。。

「核家族スタイル」で子育てをすると夫婦でリソースを奪い合うことになる悲しさ
核家族スタイルで子育てをすると忙しい 6:00  起床、身支度、洗濯 6:30  朝食の用意 7:00  朝食 7:30  片付け、子どもの登園準備 8:00  夫と子どもの見送り、出勤の準備 8:30  出勤 9:00  勤務開始 12:

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