「価値観は人それぞれだから自由に振る舞っていい」という薄っぺらい自由主義者への反論

「価値観は人それぞれだから自由に振る舞っていい」という甘い罠

 「価値観は人それぞれだから自由に振る舞っていい」という言葉は、自由に振る舞いたい者にとっては魅力的に聞こえるし、他者に関心がない者にとってはその無関心さを強調できる便利な言葉である。

 この言葉は「個人の自主性と選択の自由」を尊重するかのように見えるが、実はそれが「甘い罠」であることに多くの人が気づいていないように思う。

甘い罠にかかった損害は「自己責任」とする「薄っぺらい自由主義者」

 「価値観は人それぞれだから自由に振る舞っていい」と言ってのけるヤツを、筆者は心から軽蔑し、「薄っぺらい自由主義者」と呼ぶ。

 こいつらは、往々にして、誰しもが自由に振る舞うことを良しとしつつ、その選択の結果として生じる問題や損害に対して、個人の「自己責任」というスタンスを取り、損害を被った個人を突き放す。

 失敗した個人に「自己責任」を押し付けるスタンスは、個人が選択の全ての結果を予見し、それに対処する能力を有しているという非現実的な仮定に基づいているように思う。確かに、そいつは自分の意志で自由に振る舞うことを選択したが、その結果として起こりうるあらゆる可能性を把握していたわけではないし、現実的にそれはできないのである。

 現実には、多くの損害はその時点での選択だけでなく、環境や他人の行動など、個人のコントロールを超えた要因によってもたらされるので、完璧な予測はできないと考えたほうがいい。その上、実際のところ、未来に対する想像力を持っている人間は少ない。たいていが目先の今年考えられない知能しか持ってない。

 なので、「自由に振る舞っていい、だが、その結果生じる損害の可能性をしっかり把握して、自分の責任の範囲内でならな!」みたいな前提をつけたところで、実際にそれができる人は少ないと思う。

全ての人間が自分の自由な選択とその結果に責任を負えるわけじゃない

 さらに、自由に振る舞った結果、その人にとって想像していなかった損害が発生したとしても、実際には、全ての人が自分の選択とその結果に対して完全な責任を負えるわけではない。

 個人の背景、教育、経験、そしてその時の状況が複雑に絡み合い、選択の自由を制限することも多い。これらの要素は個人が自由にコントロールできる範囲を超えており、したがって、その結果としての「自己責任」も個人だけに帰することはできない。

 多くの人が、自由に振る舞った結果を正確に予想することもできず、その責任すら満足に負えないというリアルがある中で「価値観は人それぞれだから自由に振る舞っていい」なんて言葉は現実を誤認させる害悪なスローガンでしかない。

「自己責任」と切り捨てる行為は社会を脆弱にする

 「薄っぺらい自由主義者」の語る「自由」は人々に欲望に基づいた非合理的な行動を促し、「自己責任」は失敗した個人を簡単に切り捨て、社会全体の脆弱性を高める。

 本当にこう言うやつらの言説は害悪でしかない。

 個人が直面する問題を社会的な文脈から切り離して、「お前のせい!」と断ずることは、共同体としての連帯感を損ない、個々の困難に対する共感や支援の姿勢を弱める。結果として、問題は表面的にしか解決されず、同じ問題が繰り返されることになる。

 結果的に「自分の失敗は全て自分でなんとかしろ!自分のせいだろ?」と切り捨てられた個人は、社会に牙を剥くか、自主的に社会を去ることになるかもしれない。

とはいえ自由に振る舞いたい者には理解されない「自由の代償」

 いたずらに自由を煽る「薄っぺらい自由主義者」は、自由に快楽を求めに突っ走りたい個人にとっては燃料となるが、そう言う個人に「自由の代償」を認識させて、その燃え上がったエンジンに冷や水をぶっかけることはかなり難しい。

 一応、筆者も会話ができる他者に対しては「その自由な振る舞いが引き起こす損害のタネについて積極的に指摘していく」と言うことを、気が向いたらやるが、大抵の場合、聞き入れてもらえない上に反感を買う。本当にそんな行為である。

 結局のところ、自由に振る舞いたいと願う者にとって、その行動がもたらす「自由の代償」を理解することは難しい。起こるかどうかもわからない損害について現実感を持って想像することは、だいぶ難しい。

 しかし、難しいからと言って、自由の結果としての責任や、それが個人や社会に与える影響を熟考することなく行動する人々は、問題が顕在化した時に初めてその重大さを実感することになる。

 そして、それを実感した時には往々にして個人で負えるサイズの損害ではなくなっている。

個人としては自由のもとに失敗した人を見捨てるが、社会としては見捨てないほうがいいと言う立場

 しかし、実際のところ筆者は個人としては、自由に基づいて行動して失敗した人々を、個人的にリソースを割いて助けることはしない。つまり見捨てるのである。

 ただし、社会としてはそういった人々を見捨てるべきではない、と思っている。社会制度を通じて適切な支援や救済を提供することで、個人が再び自立し、貢献できるようになるための手助けをするべきであると強く思っている。

 これは、「自由を煽られて後先を考えずに欲望に邁進したバカ」を、自分が身銭を切って助ける価値はない、とする一方で、「八方塞がりになったバカ」が暴れ出して自分が生活する社会が危険な場所になってほしくない、という筆者の2つの欲望があるからである。

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