人格の成熟は経験と反省の果てにある気がする話

大学生時分、筆者は「やることがあるということが充実した人生」であると思い込んでいた。たくさんの友達に囲まれて、その友達とたくさんの予定があり、その予定のためにたくさんの労働をして、それでも大学は卒業できるように勉強も欠かさない。そんな忙しい時間の過ごし方が良く、良い時間の過ごし方をすると成熟した人間になると思っていた。しかし、2024年5月13日時点で34歳の筆者はそんなことは全くの間違いである、と自信を持って言える。

予定やタスクをこなす、ということには思考を必要としない。自分で何かを考える必要がないのである。その時にやることは予定であったり、タスクが教えてくれる。「何時にどこに、何を持って行く」、「いつまでにある程度の精度の調査をする」など、やるべきことは決まっているのだから、当人は「どうやるのか?」ということだけを考えれば良い。これは目の前の物事に対応、あるいは、反応しているだけで、自分で考えているとは言い難い。こういう場面では「なぜそれをするのか、何がしたいのか、どうなりたいのか」という目の前のことを批判的にみる必要はない、むしろしない方が作業が捗る。しかし、こればかりをする人間はまるでプログラムのようなモノである。とても人間であるとは言い難い。

とはいえ、常に内省的でいるばかりでは、それはそれで「現実世界に即していない、理解不能の訳の分からない人格」になる。大事なのはバランスなんだと思う。予定やタスクなどの「社会とのやりとり」を経験して、その後で「それは自分にとって一体なんだったのか、やる価値があったのか、その時自分はどう思って、それを踏まえて今後どうなりたいのか」という反省と評価をしていくことで、自分の中に経験値が貯まっていくのだと思う。経験値が貯まっていくとレベルアップし、次にすべき「社会とのやりとり」が自分で判断できるようになる。こうすると「自分が求める物事」と出会いやすくなり、それが自分を幸せにしてくれると筆者は信じている。

さらにそういう経験値を貯めて高いレベルにいる人は、自分が何を感じ、何を好み、何を信じ、どこに向かっているのか」ということを言語化できている。内省的でいることは自分自身と言語で対話することであるから、これが済んで経験値として消化できている人は、自分の気持ちや考えを言語化できている。こういう人とは「あなたがどんな人間なのか、何をどう考えたのか」ということを語り合うことができる。そしてそういう人間とのやりとりはさらに自分の人格を洗練するきっかけを与えてくれる。これは本当に気持ちのいい時間である。

願わくばこういう成熟した人格を持つ人が増えて欲しいモノだが、世の中の速さや便利さはそれを助けているとは思えない。むしろ邪魔している。内省は「空白の時間」にしかできない。暇さえあれば何でもかんでも情報を頭にぶちこんでいるようじゃ内省なんて到底できない。口に物を入れるのと、口の中のものをよく物を噛むのを同時にやることができないのと同じである。食べると噛むは別々にやらなきゃいけない。そのことに世の中が気づく日は来るんだろうか?特に期待はせずに待ちたいと思う。

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