「人を恨まなくて済む方法」を見つけたった!

我々は日々、いろんな人と関わり、そこにいろんな感情を抱く。好きな人と一緒にいれば喜びや楽しみを感じ、嫌いな人と一緒にいれば怒りや悲しみを感じることは多くの人が感覚的に理解できることだろう。そして、自分をネガティブな感情に染め上げてくる嫌いな人を恨んだ経験も誰しもがあるだろう。しかし、考えてみれば何で好きな人と嫌いな人の区別ができるんだろうか?こんな区別がなければ、とりわけ嫌いな人がいなければ、人を恨む必要なんかないのに。これを何とかするために「人を恨まなくて済む方法」を考えてみた。

「人を恨まなくて済む方法」は、簡単に言うと「自分と他人は同じ運命共同体の中の役割が違うパーツである」と言う認識を持つことである。簡単に言ったようでよくわからないので、一つずつ説明する。

まず、「自分と他人は同じ運命共同体である」という部分から説明する。これは我々が生きている社会を「一つの大きな人体」だと捉えるとわかりやすい。自分も他人もその人体のどこかのパーツに過ぎない。もしかしたら筆者は指で、あなたは一番右下の腹筋である。このパーツ同士が嫌い合ったとしても、「社会という人体」においてはどちらも必要である。指か腹筋がない状態での生活なんて考えられない。さらに各パーツもその人体がないと存在することはできない。指だけ、腹筋だけでは何にもできない、動くことさえもできない。だから自分も他人も、仮に恨み合っていたとしても、お互いに運命共同体なのである。

次に「自分と他人は役割が違うパーツである」という部分を説明する。上記の通り、我々はそれぞれが「社会という一つの大きな人体」の各パーツである。そしてそれぞれが役割が異なるパーツである。そしてここで大事なのは「パーツ同士は属性が異なるほど理解し合えない」と言うことである。イメージとしては、手の付近のパーツは互いに庇いあえるが、手と腹筋では相互に作用することはほとんどない感じ。例えば、爪をケガしたら患部がどこかにぶつかりそうになったら別の指で庇ったりすることは誰しもが無意識的にやることだろう。こんな感じで、近しいパーツ同士は互いに連携することができるのである。一方で、かけ離れたパーツ同士はそれができない。胃が痛いからって胃に対して親指ができることは何もないのである。その痛みすらも性質が違い過ぎて理解できない。内臓の痛みは切り傷や打撲とも違うタイプの痛みである。これはパーツ同士の仕様なので、自分が理解できない人がいるのは当然である。

「自分と他人は同じ運命共同体の中の役割が違うパーツである」であるということがわかったら、それを前提に「人を恨まなくて済む方法」について説明する。人を恨まなくて済む方法」とはつまり、「自分は何のパーツであるかを理解し、そのパーツがいるべきポジションに速やかに移動する」と言うことである。

上記の通り、「社会という一つの大きな人体」は、そこに生きる人それぞれにパーツとしての異なる役割もたせ、期待通りに振る舞うことを前提にしている。そういう本来の意図通りに我々パーツ一同が振る舞えば、我々は理解し合い、助け合える素敵なパーツたちと、それが実現できる最適なポジションで無理なく仕事をして幸せに生きていける。なので、もし「嫌いな奴に囲まれて、毎日不得意なことをさせられて、死にたくなるくらいにしんどい」なんてことを感じて周りの人間を恨んでいるならば、それは自分というパーツの認識と最適なポジションへの移動するための行動が足りていないのだと思う。残念ながら「社会という一つの大きな人体」はそこまで面倒見が良くないので、自分が何のパーツなのか、そのパーツはどのポジションにいるべきなのか、ということは教えてくれない。自分で自分のパーツとしての役割を認識して、それがあるべき場所に移動しないといけないことには注意しなければならない。

さらに言うと、自分の役割を認識し、ポジションを改めてもそれで終わりではないのが厄介なところ。我々パーツはその時々によって役割が変化するので、その度に新しい最適なポジションを探して移動しなければならないのである。この変化は、時間や経験、ライフステージの変化などによって起こる。例えば、一作業員が経験を積んで管理職になることや、結婚して主婦になること、子供を産んで父親になることなどが挙げられる。これによって、以前の役割では適合していたポジションが、役割の変化に伴って適合しなくなることもある。このような役割の変化があるからこそ、日頃からの自己理解と現状把握がますます重要になる。自分の役割が変わるタイミングで、適切なポジションを見つけて移動することで、「社会という大きな人体」の中で相性の悪いパーツとの機能衝突を避けることができるのである。

このように付き合う人間は自分のライフステージごとに変わるのが自然だが、「もう話題もあわないのに、選択肢がないからという理由でダラダラつまらない人間関係を続けている」というのことはよくある。これは不幸の入り口である。つまらないと言う時点でその人間関係は今の自分にふさわしくないのである。そう言う人間関係に使う時間を捨てて、新しい、今の自分にふさわしい人間関係を作ることに時間を使わないのは、「不幸になるための消極的な行動である」と言わざるを得ない。

まとめると、「社会という一つの大きな人体」に生きる我々はそれぞれが異なるパーツであり、パーツはそれが求められるポジションにいれば、「相性の良い人」に囲まれて幸せに仕事ができるが、自分が何のパーツなのかがわからず、また、わかっても行動しなければ「相性の悪い人」に囲まれて幸せになることはできず、結果、人を恨みながら生きていくことになるのである。

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