「能力の高い人ほど思考がノイズにまみれて判断がおかしくなる」という想像

「自分より能力の高い人は、自分よりまともな判断を下すだろう」という思い込み

 筆者は他人に誇れる「実績」をまるで持っていない。

 珍しい状況にいたことはあるが、「〜ができる!」とか「〜という成果を挙げた!」とか「お金をいっぱい稼いでいる!」なんてことはまるでない。なさすぎて恥ずかしいほどである。

 だから、「意識高い系の集まり」とか大嫌いである。

 「実績」がないことに劣等感を感じていたので、集団で意思決定をする際には「自分より実績のある、能力が高い人」の判断に、その内容に関わらず説得力を感じていた。

 「自分よりすごい人がそう判断するんだから、それはいい判断なんだろう。きっと自分には気づけていない要素もきっちり踏まえて、長期的にもうまくいく方法を決めたに違いない!」なんて思っていた。

 しかし、実態は全然違った。

 むしろ、会社のチームでも、友達の集まりでも、学校のクラスでも、その集団で能力が高い人が下した判断がうまくいくことの方が少なかったように思う。(ただし、こういう人は「うまくいかなかったこと」を「なかったことにしたり、うまくいったように見せかける能力は往々にして高かったと思う。。)

「能力の高い人ほど思考がノイズにまみれて判断がおかしくなる」という想像

 34歳になった筆者(2024年4月時点)は、これまで数々の「自分より能力が高い人」が下した判断で痛い目を見てきた。

 そいつらの判断のおかげで、無駄な時間と無駄な体力を使い、無駄な争いをたくさん経験した。

 そんな過去を振り返ってみて思った。

 「能力の高い人ほど思考がノイズにまみれて判断がおかしくなるんじゃないか?」と。

 「思考のノイズ」とは、感情や欲望、先入観、ストレスなどだと思う。

 例えば、「能力の高い人」が、その能力の高さから「自分はミスをしない」という先入観を持っていたり、「自分の高い能力を誇示したい」という感情を持っていたとする。しかし、判断自体にはこれらの「思考のノイズ」は関係がないので不要である。その不用物を切り離せなければ、判断が歪む。そして歪んだ判断は良い結果をもたらさない。

 実際に、筆者が能力が高いと一目置いている友人は、普段は冷静で論理的に物事が考えられるのに、自分の正義感に悖ることが起きるとカッとなりやすく、その結果無益な戦いを仕掛ける。

 これがまさに「思考のノイズ」が混じった結果の「まともでない判断」といえる。本来なら戦う前に少なくとも以下の項目は検討しないといけないだろう。

  1. それはなにを得るための戦いなのか?
  2. それは戦ってまで手に入れるべきモノなのか?
  3. 勝った結果、目的のモノは得られるのか?
  4. 戦いの規模はどれくらいなら戦うことが妥当なのか?
  5. 戦うことのコストはどの程度か?
  6. 勝てなかった時の代償はどれほどか?
  7. 戦う以外にそれを手に入れる選択肢はないのか?
  8. 戦わなかった場合に得られるモノは何か?

 しかし、筆者の友人はスイッチが入るとすぐに臨戦体制になり、戦って勝つことしか考えなくなる。そんでもって、筆者が見てきた限りでは、やはり能力が高いので勝率は高い。ただし、得たモノは「自分の正義感を貫いたことの満足感」くらいしかなかったようにも思う。

 話はズレるが、実際「ワンルームマンション投資」に引っかかる人ってそれなりに「能力が高い人」が多いよね。(年収的な意味で)

『老子』の「賢を尚ばざれば」における「無知無欲状態の人民」こそがまともに判断できる人

 『老子道徳経』の上編に「賢を尚ばざれば」という節がある。

 この「理想の政治」について説いた文章にその中に「いつも人民を知識も持たず、欲望もない状態にならせて、あの知恵者たちが人民をたぶらかそうとしても、どうしようもないようにするのである。」とある。

 これを読み始めた頃、筆者は「為政者は人民を人語がまともに理解できないくらい馬鹿にすればいいのか?」と思っていたが、それは全然違っていて、むしろ人民を「思考のノイズ」がない人として冷静でまともな状態にすることだと思い直した。

 「無知」とは、今の自分に必要のない余計なことを知らないこと。知らないから「思考のノイズ」は生まれない。

 「無欲」とは、今の自分に必要のない余計なものを欲しがらないこと。欲しがらないから「思考のノイズ」は生まれない。

 こんな状態であれば、詐欺師が「ぼったくり投資商品」を売りつけてこようと、話を聞きもしないだろう。これが「思考のノイズ」がない状態のことであると、筆者は考えている。

判断するのは自分の中の「思考のノイズ」を自覚して「無知無欲状態」になってから

 しかし、現代社会で「思考のノイズ」と無縁でいることは難しい。

 筆者が生きている社会では目を開けているだけで、耳が聞こえる状態になっているだけで、そこにガンガン「思考のノイズ」を誘発する情報をねじ込んでくる輩がたくさんいる。

 当然、「無知無欲状態」になってそれに抵抗しないと、そう言う輩の思う壺で、お金だけならまだしも、時間や健康など取り返しのつかない大切なものを知らない間に奪われちゃう過酷な社会である。

 筆者は現時点での対抗策として、以下のことを考えている。

  1. 「思考のノイズ」を誘発する情報から可能な限り距離を置くこと。
  2. 何か行動を起こす前には「思考のノイズ」を滅菌するするべくステップを設ける。

 1は、なるべく外から刺激をもらわないようにすることである。具体的には「スマホ断ち」とか「図書館などの静かな環境に身を置く」とかも良い。

 2は、行動する前に時間をおいて、「思考のノイズ」を頭から取り除くことである。具体的には、やりたいことはすぐにやらずに、一旦リストに入れて、一定時間放置する。それでもやりたければ、改めてそれをやる計画を考える、という作戦である。こうすれば「カッとなってその場で戦うこと」はない。文句があれば後日改めて戦いに行くことになるだろう。きっとその時は冷静な話し合いになるんじゃないかと思う。

 ちなみに筆者がやっている「ほしい物リスト」はこの作戦の一環である。

欲しいものリスト
「欲しいものリスト」の記事一覧です。

「思考のノイズ」は誰かの作為

 プライドや欲望、先入観は本来自分の中にあるモノじゃない。その地域の文化だったり、外部のモノがそれを作っているように思う。そして、他者をたぶらかすための作戦にはコストがかかる。広告費とか販促キャンペーンとか、タダでできることじゃない。

 我々をたぶらかす輩は、そうやってコストをかけて我々の頭に「思考のノイズ」を起こさせる。そして掛けたコストはちゃんと回収する。残念なことに、それは時間、体力、お金、健康など、往々にして我々の一番大事なものだったりする。

 こう考えると、もはや「思考のノイズ」との戦いは「生きるか死ぬかの切実な戦い」なのである。無自覚に眺めている、聴いていることが、その戦いに負ける第一歩なのである。

 君は、生き残ることができるか?

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