もう3年くらい「フィクション」を観ていない
映画やアニメ、ネット動画などで「フィクション」作品をほとんど観なくなった。
ゲームはやってるけど、これはストーリーを楽しんでいるパターンは少なくて、どちらかと言うと「ゲーム製作者の課題に自分の工夫が通用するか」という戦いを楽しんでいる。
2024年2月13日時点では、観たいと思う具体的な作品はないし、そもそも「フィクション」を頭に入れる隙間もないことを認識している。
簡単に言うと、筆者はいろいろ「いっぱいいっぱい」なのである。
この前、近所のショッピングモールの映画館で『ガンダムSEED』の映画がやってた。筆者はこの世代で、『ガンダムSEED』のプラモは合計で10体くらい組んだくらいにこの作品にハマったが、今「この映画を観たい」とは全然思わなかった。
「リアル」の方が恐怖を感じるくらい刺激的
「フィクション」の良さはいろいろある。
その中で「リアルでは表現できないことが、表現できる」というものがあると思う。こういう表現を使うことで、より「リアル」を認識しやすくなったり、「リアル」を別の角度から考える示唆をくれる表現になることもある。
しかし、今世界で「リアル」に起こっていることを見聞きすると、別にそんなものは必要ないくらい刺激的で、絶望的な感じがする。
殺し合いは世界の各地であっという間に始まるし、自分の周りはゆっくりと確実に老いて萎んでいく。
まるで危険な「火の海」に漂いながら、徐々に燃えてゆく足場に焦りつつ、次の足場を探したり、ツギハギで足場を補強するような毎日を筆者は生きている。
こんなにヤバい「リアル」から、もうたっぷり刺激をもらっているので、これ以上いらないのである。
移住先候補の「宮崎市」も先行きはだいぶ暗い。。これが「ガンガン燃えてる火の海に浮かぶ足場」の象徴である。市町村合併すればワンチャンあるかもしないが、定住はあり得ないな。
「フィクション」を観ても自分の問題は何一つ解決しない
こういう恐ろしい「リアル」に追い立てられている状況においては、「フィクション」は筆者にとっては力にならない。
それよりも「リアル」に関する情報を集めまくる方が、やるべきことが見えてくるし、実際に行動できるので安心する。
そういう切羽詰まった時こそ、別視点で物事を見れるように「フィクション」を観よう!みたいな話は妥当かもしれない。が、今はそういうことをする気になれない。
限られた時間の中で膨大で難解な問題群を1つでも多く対策することでいっぱいいっぱいである。
残念ながら「フィクション」は具体的で直接的な問題解決のアプローチにはならないので、そういうものに時間・体力・お金の三大リソースを割くわけにはいかないのである。
福祉スゴめの国フィンランドでも、そこに安心できずに「子供を作るのは生活の足場を固めてから」と、慎重になっているのだから、夢や希望にまみれた「フィクション」に現を抜かしている場合じゃなく、現実を慎重に見ないといけないのである。
「フィクション」が浪費のトリガーになる
問題解決の役に立たないという以上に、「フィクション」が浪費のトリガーになるという問題も無視できない。
正直、「フィクション」メーカーの人のセンスはモノスゴい。モノやサービスをかっこよく観せることに天才的に長けている。
こういう天才たちの「チャーム攻撃」を筆者のようなザコは防ぐことができない。これを喰らったら「誘惑状態」で大事なリソースをいくらでも吐き出してしまうだろう。
「君子、危うきに近寄らず」の通り、ヤバいとわかっているものには近づかないのが筆者のやり方である。
引き続き「リアル」を真顔で眺めるとする
筆者は引き続き、真顔で「リアル」を眺める毎日を送るとする。
いつだって自分を助けてくれるのは自分だけなのである。
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