『ソクラテス』感想メモ:知らないことを自覚して「それは何か?」と問い続けろ

「無知の知」とは考え続ける姿勢のこと

 「無知の知」とは、「知らないから考えようぜ!」という姿勢のこと。

 人は「知っている」と思い込んだ瞬間に、そのことについて考えなくなる。

 しかし、実は人が物事を「知っている」と言える瞬間など永遠に来ない。試しに「知っている」と思ったことに「それは何?なんで?」と問いを立てると、次の問いが出てくる。

 例えば、「なぜ人を殺してはいけないのか?」というよくある問いにしても、瞬間的に「それは良くないことだから!」と考える人は多い。しかし、それでは「なぜ良くないのか?良いとはどういう状態のことなのか?」という問いを立ててみよう。これだけで考えることが増える。

 こうやって問いを立て続けると、問いに終わりがないことがわかる。

 これは自分が「その物事を知らない」という自覚がないと始めることができない。その自覚が「無知の知」ということ。

「問答法」で理解を深める

 あるテーマに対して、「なんで?」と問い続けて理解を深める方法を「問答法」という。

 これは人と話をする時にも、自分で自問自答するためにも使う。決してエンタメのバトル的な議論で使う小細工ではない。

 「なんで?」と問い続けると新たな問いが出てくる。それは複数出てくるし、それぞれの問いからまた枝分かれするように新たな問いが広がっていく。

 しかし、「問答法」によって「無数の問い」が出てくるからと言って、それぞれの問いに雑に結論を出してはいけない。そんなことをしては問いを立てた意味がない。むしろ、出てきた問いにちゃんと向き合うための「問答法」なのだから。

 その問いに答えを出すためには、今自分が持っている知識や経験だけでは足りないはずである。そういう時には一旦「問答法」をやめて、その問いに結論を出すために使えそうな知識を集めたり、実験してみたりする必要がある。

 そうやっていくと、物事の理解が深まっていく。テーマに対して「問答法」を続けると、それを始める前との比べて、「考えたことがある問い」がずいぶん増えていることがわかるだろう。

 テーマに対して問いは無限に出てくるが、そもそもそれら全てを潰すことは最初から目的にしていない。大事なのはその無限の問いにどれくらい向き合ったか、である。

 研究者がやっていることはおそらくこれ。そのテーマについてのたくさんの問いに向き合い、問いを深めるための知識をたくさん持っていたり、知識として使えるように実験や検証をして精度を上げているのである。

 う〜ん、これは大学時代に知りたかったなぁ。。

「結論付けて問いをやめること」は思考停止すること

 「問答法」で物事の理解を深めるには「なんで?」という問いが必要。しかし、これはかなり面倒臭い行為である。

 なので、「なんで?」と問うと、「そういうものだから」、「個人の感想だから理由はない」、「なんでもいいじゃん!」なんて反応をしがち。しかし、これらはその物事に対して思考を停止させている合図である。この態度ではこれ以上の問いは立てられないから。

考察

他よりも早く行動するために結論を出すことを急ぐ現代の労働環境には合わない

 物事はどこまで「なんで?」と問うても結論はでない。しかし、人間はあらゆる場面で行動をしなければならない。

 特に「現代の労働環境」での行動の速さは凄まじい。四半期に区切られた短い時間の中で、複数の作戦を同時に立案、実行する。それを働いている間、ずっと続ける。

 そういうスピーディー、かつ、エンドレスな環境において、一つのテーマに「なんで?」と問い続けることは難しい。問うことを全くしないわけではないが、問いに使える時間はだいぶ少なく制限されている。

 なので、そういう環境では「それっぽい結論」を出して思考を停止させて、それを実行していくことが求められるのである。ここで「それっぽい結論」をひっくり返すようなことを考えては、スケジュールに間に合わなくなるのでNGなのである。

 しかも「それっぽい結論」を「完璧な真理」として信じないと実行するやる気に影響する。「いや〜間違ってるかもしれないんだよねぇ」とか思いながらも、「それっぽい結論」を元にした「微妙な作戦」に情熱を注ぐのは難しいのは労働者なら誰しもが肌身に感じているだろう。

 なので現代の労働環境においては、「問答法」で理解を深めることは正解とは言いづらい側面がある。

山本七平の『空気の研究』における「水をさす」は「なんで?」と問うことと同じ

 「なんで?」と問いを立てることを嫌う人は多い。

 それはそのテーマに興味関心がないということもあるだろうが、一番嫌悪するのは「水を差されるから」だと思う。

 山本七平の『空気の研究』によると、「場を支配する空気に対抗するには、その空気を作っているモノを相対化してやることだ」とある。例えば、音楽アーティストのファンが集まるライヴ会場で「サイコー!」と熱狂するファンたちに、「え?最高ってことはこれより良いアーティストっていないの?マジで?ちゃんと世の中の全部作品聴いた?」とか問うたら、ファン達は確実にシラけるだろう。シラけることで「熱狂の空気」が壊れるのである。

 要するにこれが「なんで?」と問う「問答法」である。

 こう考えると、「空気に支配されること」は「同一の方向を向いた思考停止状態、あるいは、思考停止を希望する人間が集まった状態」で発生し、それを打ち破るには「問答法で思考停止状態にさせないこと」なのかもしれない。

 「そもそも思考できない人間」、「面倒臭いから思考したくない人間」、「思考しないことが楽しい人間」は、「問答法」が始まると「思考することを強制される」ので、これを嫌がるのである。嫌なことをする人間が嫌われるのは納得はできる。

 山本七平の『空気の研究』でも言われているように、この「空気の相対化」はその場の人間からものすごく嫌われるので、実行する場合は後先を考えたほうが良さげ。

参考:『ソクラテスの弁明』

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